N O V E M B E R, 2001

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11月25日(日) アストリア再発見
 アストリアに引っ越して来て約2年。家賃、部屋の広さとキレイさ、マンハッタンへの近さ、近所での買い物の便利さ、などの理由でほぼ完璧に気に入っているのだが、足りないものが2つある。一つは日本の食材を買えるお店でもう一つが週末にブランチを食べられるカフェ。
 ヴィレッジに住んでいた頃は毎週末のようにブランチに出かけていた。何しろあの辺はカフェだらけなので、毎週違う所に行っても1年ぐらいは同じところに行く必要がないんじゃないかと思うぐらいブランチをする場所には事欠かない。週末の朝遅く起きて、化粧もせずに寝ぼけまなこでカフェに行き、季節がいい時だったらサイドウォークの椅子に陣取って、フレッシュのオレンジジュースやコーヒーをすすりながら日曜版の新聞を読む時のあの何とも言えない怠惰で満ち足りた気分は、いくら家で豪華な朝食を用意しても味わえない。
 ところがついに見つけたのだ。近所でブランチを食べられるお店を。時々行くギリシャレストランの近くにあるカフェバーで、キッチュな外観が前々から気になっていたのだがお酒があまり飲めないばかりに今まで足を踏み入れた事がなかった。今日の朝たまたま通りかかったので入ってみると、あるではないかブランチが。
 店内はガレージセールで揃えたようなちょっとレトロでふぞろいの椅子やカウチが思い思いに並べてあって、ウィリアムズバーグやローアーイーストサイドにありそうなお店だ。サラダやサンドイッチの軽食は夜もあるらしい。日曜の昼間はブランチ用にオムレツやパンケーキもある。アストリアのレストランのご多分にもれずここもギリシャ人経営らしく、キプロス風ブランチというのがあったので試しに頼んでみたら、最高においしい目玉焼きに出会った。
 アメリカで卵を頼む時は自分で「フライド」(目玉焼き)とか「スクランブル」、焼き方も「ソフト」とか「ウェルダン」とか指定するのが普通だが、聞かれなかったので忘れていたら目玉焼きが出てきた。スクランブルエッグの方が好きなので、しまったな、と思いながら食べてみるとこれがびっくりするぐらいおいしい完璧な焼き加減の目玉焼きだったのだ。「びっくりするぐらいおいしい目玉焼き」なんてものが存在するのか、と思われる方もあるかも知れないが、まず白身の部分が厚くふっくらしている。これは卵が新鮮でないとありえない。白身には完全に火が通ってなければならないが、焼き過ぎは禁物。あくまでも柔らかくあるべきで周りが焦げて茶色になってたりしちゃいけない。黄身の部分は下の方は固まっているけれど全体的には半熟で、ちょっとフォークをつけるだけでたらーっと崩れるぐらいが理想。アメリカでは卵はしっかり火を通さないとお腹をこわすと思われているので、何も言わないとただただ焼け過ぎてボソボソした卵が出てくる事が多いのだ。自分でも卵を焼きながらコーヒーを入れたりしているとちょっと目をはなしたすきに焼き過ぎたりしてしまうぐらい、卵を焼くには一瞬のタイミングが大事なだけに、一言も言わずに完璧な焼き加減の目玉焼きが出て来た事にひたすら感動しながら味わって食べた。
 ブランチの後は以前から気になっていたアメリカ映像博物館に初めて入ってみた。歩いて5分の所にあって、前から行ってみようと思いつつ何となく敷居が高く感じて入った事がなかったのだ。映画やテレビについての展示がたくさんあってなかなかおもしろかった。毎週末映画の上映会もやっている。会員になる事をすすめられて、迷ったのだが結局入る事にした。年会費75ドルで1年間私を含む二人が博物館にいつでも入場でき、毎週末ある上映会に二人で入場可能。その他の上映会や講演は割り引き料金で入れる。一部の映画館で有効の入場券や博物館のギフトショップの商品が割り引きになる特典もある。実は1年以上前からある雑誌に映画について原稿を書いているのだが、その割に過去5年ほど見のがした映画が多い事に自分自身嫌気がさして、先日から最低1週間に一本は映画を見る事を自分に課していた。ここの会員になればキューレターが選んだ名画が手ぶらで行って週に一本見れるではないか。この特典だけでも価値があるのでは、と期待している。引っ越してきて2年もたっているんだからもっと早く入ればよかった。今日早速その上映会で「未来世紀ブラジル」を見たのだが、手渡された資料によると1985年の作品だと言う。封切りの時から見たかった覚えがあるから、16年間見たいと思って見ていなかった事になる。しようと思っていて特に理由もなくしていない事ってまったくあり過ぎる。
 Cafe Bar
 32-19 36St. Astoria, NY Tel:718-204-5273
 American Museum of the moving image
 35th Ave. at 36 St, Astoria, NY 11106 Tel:718-784-0077
 アメリカ映像博物館のウェブサイト


11月18日(日) 棚卸し
 9月11日の事件のあと強烈に感じたのは、朝いつものように会社に出かけて、二度とこのアパートに帰ってこない、なんて事がありえるんだな、という事。
 最近知り合いの男の子が24歳でクモ膜下出血で亡くなった事もあり、死は予告なしに突然訪れても不思議はない、という思いをますます強くする。もし私が二度とこのアパートに帰ってこれなかったら、当然その後にこのアパートに足を踏み入れるのは私以外の誰か。住む人がいなくなった以上、アパートの中にある荷物もすべて他人が処分する事になる。主を失ったこのアパートは今以上に「私」の痕跡を残す場所となり、アパート内にあるものは何でもない小さな物までも「私」がここにいた事の証としての意味を持ち始める。
 そういう目でこの部屋の中にあるものを見渡すと、すべてが「私自身」を表しているだろうか?2年前にここに引っ越してきた時にだいぶ思いきって物を捨てて、好きなものだけしかないスッキリした暮らしを目指したのもつかの間、長く住めば住むほど、「なんでこんなものがここに?」と自分でも首をかしげるような物が増えてくる。
 おかげで9月以降ヒマさえあれば部屋の掃除をしている。たまたま部屋を散らかしたままあわてて出かけた日に帰ってこれなくて、いつもそうだったように思われるのは嫌だもん。それでもなかなか片づかないのが、クローゼットの中。一度総ざらいして不必要なものは思いきって捨ててしまおう、と思っていた。今日のように久しぶりに何の予定もない日曜日は、クローゼットの棚卸しに最適だ。
 まず、とれないシミがついているもの、サイズがあわないもの、理由はなくても2年以上着ていない洋服は捨てるかサルベーションアーミーに持って行く事にする。以前は気に入っていたのに、なぜか今着ると野暮ったく感じる洋服ってある。着ると太って見えるとか、背が低く見えるとか、貧乏くさく見えるとか、おばさんっぽく見えるとか、着た時にどんな種類であれ劣等感を感じるような洋服はとにかく処分するに限る。うちは会社に何着て行ってもいいし、日本と違って流行に左右される必要もないんだから、着ていて気分がいい洋服を着た方がいいに決まっている。
 大きな紙袋2つ分の洋服を処分して、改めて数えた冬服の数は…。
 ロングコート2枚、3/4丈のコート1枚、半コート2枚、スエードのコート1枚。
 ジャケット12枚、毛皮のジャケット2枚、ライトジャケット1枚。
 スーツ3着、ワンピース3枚、Gジャン2枚、スウェードシャツ1枚。
 シャツ14枚、セーター、カーディガン27枚。トップ2枚、スカート12枚、パンツ8枚。
 私の年代の女性としてこの数が多いのか少ないのかはわからないが、これ以外に帽子12個(冬物だけで)、マフラー13、スカーフ22、バッグ17、というのは明らかに多いような気がする。毛皮のようにふわふわしたものやモコモコした洋服がやたら多い事と古着がワードローブの中で占める割合が大きいのも特徴かも知れない。スカートの中で革のスカートが白、黒、赤、黄色と4色揃っている所もまあ私らしい。(白と黒以外は持っているだけでほとんど着ていない所も。)あ、あとカツラ一つというのもか。(笑)うーん、やっぱり持ち物は持ち主をよく表しているかも知れない。
 しかし、アパートに残された「物」が持ち主を表す、というのは一人暮しの場合に最もあてはまるようで、これが既婚者や誰かと一緒に住んでいる人であれば、やっぱりその残された「人」が死者について一番雄弁に語れるような気がする。9月11日以降アメリカでは結婚相談所が忙しい、という話を聞いたが、あわてて結婚に走る人の心情にはこんな事も少しは関係しているのかも知れない。

11月17日(土) キロクとキオク
 もし私が事件に巻き込まれたりしたら、アリバイを証明するのはそう難しくないだろう。なぜなら愛用のExacomptaのスケジュール帳に、その日仕事以外に何をしたか、誰とどこでご飯を食べたかなどを簡単に記録するのが習慣になっているからだ。
 ところが先週から異常に忙しく、久しぶりに何も書かないまま10日ほど経ってしまった。そうすると不思議なほど思い出せないのだな。先週の今日何をしたか、3日前のお昼何を食べたのか。これって別に普通の事なのかも知れないけど、そこに一言「史朗さんとJun、ロニー・ジョーダン@ヴィレッジアンダーグラウンド」と書いておくだけで、その日オーダーしたメニューから、史朗さんが着ていた洋服、ロニー・ジョーダンが演奏した曲目まで容易に思い出せるのだから記憶って不思議なものだ。写真にも同じ効果があるよね。写真が残っていると本来だったら忘れているはずの一度しか会った事のない人の事だって、永遠に覚えていられる。普通、忘れていて当然の事を覚えていると、人から「すごーい」って言われたりするけど、じゃあできる限り記録して、忘れるはずの事を覚えている方がいいのだろうか。
 学生の頃、今から考えると信じられないぐらいたくさんの映画を見た。一年間に平均して100本。200本ぐらい見た年もあったんじゃないだろうか。でも、今になるとそのほとんどをキレイさっぱり忘れている。「見た」事だけは覚えていたり、漠然と「よかった」とか「つまらなかった」という印象だけが残っている映画がほとんどで、細部まで覚えている映画というのはほんの一部である。もちろん覚えているのは特別な思い入れがあって今でも繰りかえし見るような映画がほとんどだから、私にとって意味があって覚えているんだろう。逆に言えばそれほどの意味を持たない映画を無理に覚えている必要がどれだけあるのだろうか。音楽について言えば、あるCDを聞いた直後は特にいいと思わなかったのに、しばらくして不思議と何度もフラッシュバックしてきてまたその曲を聞きたくなり、結果的にお気に入りのCDになっている事もよくある。
 こんな風に結果的に「覚えている」事が私にとって何が重要かを教えてくれる事が多々あるのに、むやみに何でも記録していると、記録が記憶を強引に揺さぶり起こして、脳が自然にフィルターをかけて決定している重要度の正しい選別を妨げはしないだろうか。「忘れる」という事に関しては「歳のせいで忘れっぽくなった」とか「うっかり忘れていた」というように否定的な意味合いを持つ事が多いが、考え方を変えれば人間は「忘れる事ができる」という能力を持っているとも言える。悲しい事があった時にはこの能力に感謝するべきだ。すべての哀しい記憶が薄れる事なく、たった今起こった事のように活き活きと感じられたら哀しみの堆積だけで胸がつぶれて生きる意欲なんてなくなってしまうかも知れない。忘れていると思っている事だって、完全に忘れているわけじゃなくて、頭の中の引き出しのず---っと奥のそのまた奥の隅っこに押し込まれていだけだって言う。ある記憶を中々ひっぱり出せない所に押し込めたり、別の記憶はすぐ見える所に出しておいたりするのが脳の自然の働きなら、やっぱりそこにはそれなりの理由があるからじゃないんだろうか。何でもかんでも覚えている事が精神衛生上いいとは思えない。
 そう思いかけた時に今日友人と話していてちょっと考えが変わった。彼は10代の時に両親と3人で行った素晴らしくおいしいイタリアンレストランにまた行きたいのだが、ヴィレッジにあって半地下だったという事しか思い出せないので探しようもなく、記憶の中だけの幻のレストランとなっているという。そういう事って確かにある。この場合半地下の階段を降りていった時の事やおいしかったという舌の記憶が約10年後の今も残っているわけだから、.明らかに彼にとって意味がある事なのに、その大切なお店の名前や住所は思い出せない。つまり思い出せないという事はイコール「重要でない」という事ではない。確かに、印象やその時感じた感情だけが記憶に残っていて具体的な事は忘れている事はよくある。この場合、名前や住所をどこかに書き留めておくとかお店のカードを保管しておくとかすれば、その幻のお店にたどりつく事ができたのに。
 今自分が感じている感情や印象については記録しようとしまいと、残るものは残るし、残らない物はそれほど重要ではない(と思われる)。自分が覚えておきたい事実や情報、正確に言えば、将来自分が忘れた場合に思い出したいと思われる事は記録しておいて損はない。つまり「覚えておきたい」「忘れたくない」という自分の「意志」を介在させれば解決する事のような気がする。考えてみれば「覚えている」事と「思い出す」事は似ているけれど違う。記録するなら「覚えておく」ためというより、必要があれば「思い出す」事を可能にするため、極端に言えば安心して忘れるために記録すると考えたらどうだろう。
11月5日(月) シンクロニシティー
 今日とても不思議な事があった。
 先日父からメールで「今度本を送ります。」という連絡があったのだ。何でも図書館で借りてとても感銘を受けたので私にも読んでほしくて送るという。以前母から「動物占い」の本が送ってきた事はあったが、父がそんな事をするのは初めてだし、しかもその本について、「宇宙というか、地球というか、人生というか、自然というか、そういうもののについての人間の英知、当然お父さんの知識では認識できない不思議を感じ、ひょっとすると輪廻の世界もあるのではと思った次第です。」なんて書いてある。ニューエイジ的な考え方からはかけはなれた戦前生まれの父が、いったいどうした事か、とちょっと驚いた次第。
 しかも私も先週から、宇宙や地球や人生や自然について考えさせられる本を読んでいたのだ。「地球(ガイア)のささやき」という本で、書いた人は龍村仁という映画監督。日本では全国各地で自主上映されている「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」という一連のドキュメンタリー映画を撮った人だ。日本にいる頃、この映画の第一番と第二番を見て非常に感銘を受けた。たまたま先週ブックオフでこの本を見たので、懐かしさから手に取り、ちょうど今日通勤途中の電車の中で読み終わったのだ。
 まさか、とは思ったが、妙にザワザワしたので、実家に電話して「ねぇ、この前お父さんが送るっていってた本、まさか「ガイアのささやき」っていう本じゃないよねぇ。」と母に聞いてみたら、やっぱりそうだったのだ。しかも今日送ったと言う。私今日読み終えてしまったんで、送料無駄になってしまったね、ってそういうレベルの話ではなく何とも不思議だ。これが例えば新刊で、日本でもニューヨークでも本屋に行けばずらーっと平積みしてある本とかだったらわかるよ。しかし、お互いが福岡とニューヨークの図書館と古本屋でたくさん並んでいる本の中からたまたま同じ本を同時期に手にとったのは、本当に単なる偶然なんだろうか。それとも父が私に読んでほしい、と思っている意志が私に伝わったんだろうか。この本自体が「心で思う事が現実になる」とか、「私達の意志を超えた宇宙の思惑とでもいうようなものが存在する」という考え方に基づいて書いてある本だから、よけいにただの偶然とは思えない。どこか高---い所から私たちを見ている誰かから「ほらね。」とウィンクされたように感じた。
 「地球(ガイア)のささやき」龍村 仁著 
 創元社 2000円 /文庫版 角川ソフィア文庫 781円


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